2010年04月21日
川俣晶の縁側歴史と文化下高井戸周辺史雑記 total 5279 count

松原のルーツ

Written By: 川俣 晶連絡先

 Alice堂さんより松原宿と松原の起源についてのメッセージをいただきましたが、実は前回に世田谷中央図書館に行ったとき、ついでに関連書籍のコピーも取ってきました。

「世田谷の地名 昭昭(ママ)59年3月10日発行 世田谷区教育委員会」p333より

 赤堤村は、天正19年(1591)旗本服部左兵衛貞信が、采地替によって同村160石を知行されたが、当時の赤堤村の区域は、後に分離独立する松原村の区域を含んだものであった。

 慶安2・3年(1649・50)頃作成されたとする『武蔵田園簿』にはまだ松原村の名はみえず、『元禄郷帳』に至って松原村327石余と出ているという(角川地名大辞典)から、慶安から『元禄に至る4・50年の間に、松原村が分離独立して一村を成したものと思われるが、その松原村は、『新編武蔵風土記稿』によると、経堂在家村の名主松原太郎左衛門の先祖で、世田谷城主の吉良氏の家臣松原佐渡守の3兄弟が松原宿を開き、その宿の商人等がこの辺りを開墾したので、松原と称するようになった、とあるような故であろうか、(以下略)

 というわけで、「赤堤」→「松原宿」→「松原(本体)」という順番で成立していて、実は松原宿を松原の飛び地と呼んでしまうのはあまり適切ではないのかもしれません。

 むしろ母体は松原宿の方であり、飛んでいるのは松原かもしれません。

雑感 §

 それにしても、松原の話に踏み込んでいくと、知っている場所の話であるのに驚かされます。梅ヶ丘駅と豪徳寺駅の間あたりから北方に行って二股に分かれる道など、「ああ、あそこか!」と即座に分かる話です。

 ただ、松原宿を起点に考えると、下高井戸の重心移動が可能であることが分かります。つまり、幕府の庇護を失った下高井戸宿が衰退した穴埋めを、松原宿の経営ノウハウつまり商業センスを持った松原が補うことができたとすれば、今のいわゆる「下高井戸」が実質的に「松原」である理由も良く分かります。もともと、幕府の庇護を受けていない松原宿のノウハウは、そのまま幕府崩壊後の下高井戸に適用できたのでしょう。つまり、ブランドとしての老舗である「高井戸」を冠しながら中身は松原宿です。

下高井戸周辺史雑記